昨日の祈祷会は詩編22編でした。
ダビデが書いたものです。
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
22編はこの言葉で始まるのです。
神に見捨てられた、と嘆くダビデのこの言葉は、十字架にかけられたイエスもつぶやいているのです。父なる神と隔絶されたかのような、深い悩みと苦しみのうちに発せられたこの言葉を、弟子たちはどのように聞いたのでしょうか。
今のパレスチナの状況をこの22編を引用して、全てから見捨てられた嘆きと苦しみの状況ではないか、と語られました。
私がイスラエルに旅行したのは2018年でした。ヨルダン川の西岸は鉄条網に取り囲まれたパレスチナ暫定自治区がありました。イスラエル側は豊かに自由があるように感じられましたが、パレスチナ側はどうだったのでしょうか。
区切られて隔絶されたエリア内に閉じ込められて、仕事も物資の流通も、人々の往来も制限されている世界。ガザは福岡市と同じくらいの面積でそこに220万人以上が閉じ込められているそうで、天井の無い監獄と言われているのです。失業率が高いのも当然なのです。そこに生まれてくる子供たちには、監獄に閉じ込められて償わなければならない、どんな罪があるというのでしょうか。
いくらハマスの側に戦争の発端があったとはいえ、それに乗じて徹底的に叩きのめそうとするイスラエル。ガザでこの2年間で亡くなった人たちは、東京の千代田区の人口と同じだという事です。一つの自治体が消滅するほどのジェノサイド。
この状況、ガザの悲惨が神にも見捨てられた、と嘆くダビデの詩編を通して語られました。
救いはないのだろうか。
この詩編を読み進めると何行かの空白の次にこんな言葉が続いています。
あなたは 私に答えてくださいました。
続いて神への賛美の言葉が語られて、前半の絶望とは大きく変わっています。
この空欄には、いったいどれくらいの時間がかかっていたのでしょうか。
ガザに、パレスチナに喜びが戻るまでに、どれくらいの時間がかかるのか・・・
私たちに出来ることは何か、ということも語られました。
最大の絶望は忘れ去られることだ、と言っていました。ガザの嘆きと悲しみに寄り添い、共に涙を流し、彼らの声を聞き続けること、忘れないで伴走すること。彼らの叫びは音ではないし、世界は、私たちは、決して忘れてはいない、という証としての支援。それを続ける事ではないか、と語られました。10月7日には日本でも、渋谷でデモが行われていたそうです。
神が創られた同じ人間です。
乗り越えて、必ずダビデのように喜びの歌が歌えるように・・・昨日の祈祷会では、ガザ、パレスチナのために皆さんと祈りました。
一人一人の為すべき事を改めて深く考えさせられた祈祷会でした。