今日は祈祷会の日でしたが、出かけようとしたその時に、家事を手伝って下さるYさんがいらして、超ビックリ。カレンダーに書いてあった予定を見落としていました。それで、急遽教会はお休みして、1時間くらい一緒に作業して、後は指示だけして、私は事務仕事をしていました。
確定申告の税理士さんとの日程調整や、すみれ会の日の夫のラウンド予約などして、これもサクサク終わってしまったら、昨日の典子さんの事を考えていました。
あの状況で、一人の生活を律している意志力は凄いなぁ、とは思ったのだけれど、スキが無さすぎるとも感じてしまった私でした。
物事の捉え方の差というのも感じました。
長男が帰国できなかったから、今年のお正月は集まらなかった、たまたまお嫁さんも孫もインフルエンザになっちゃったし、と言う私に、息子さんが帰国していなくても、孫を連れて新年の挨拶には来させるべきではないか、という考え方のようでした。でも、インフルだったし、お嫁さんのお母さんが手助けに行って下さったみたいで、私は楽しちゃったの、とも言ったのですが、回復したら、池袋に挨拶に行きなさい、と言わない親も親ね・・・という意見のようでした。
私が全く気にしていない事でした。面倒かもしれないけれど、お正月の支度はするもので、新年の挨拶くらいは最低限の家族のルール。意識して守っていかなくちゃダメよ、と注意されました。孫のハロウィンの写真を見せていたら、ハロウィンの衣装には時間が割けてるのにねぇ。とも言われ、でも何にも感じていなかった私は能天気ねぇ、と笑われました。
今度の土曜日は、一緒にカップヌードルミュージアムに行くの。お年玉も渡せる、と話した時には、羨ましいわねぇ。と言っていました。典子さんは、息子さんの家族から、一緒に遊びに行くなどの楽しいお誘いが無いのだ、と言うのです。冠婚葬祭、儀式のときには会えるのだとか。
あまりにしっかり者でスキが無いお姑さんだと、一緒に遊びに行ったとしても、リラックスして楽しめないのかなぁ、と想像しました。
大人になれば、意見してくれる人なんて居なくなってしまうから、意地悪では無くて、言わなきゃならないことは、最低限は言う事にしているの。という典子さん。
孫の教育方針について尋ねられても、特段無しです。地元の公立小学校に通って、放課後は沢山遊んで欲しいというのくらい、という私の返答は、典子さんには孫の将来にかかわるのに、とんでもない、という感じだったようです。でも私は、それがうるさいなぁ、とか腹立たしいとは感じなかったのも確かです。そんな高望みしたって無理よ典子さん。私がおばあちゃんなんだから。私の取り柄は能天気!!と言って二人で笑いあいましたから。
丈夫なだけが取り柄、って言えたのにそれは言えなくなっちゃって残念だわぁ、とも付け加えてまた笑いました。
でも、冷静によくよく思い返してみると、典子さんの言葉は感じ方によっては不快に思う人も居るかもしれないな、と気が付きました。もしかしたら、息子さん家族やお嫁さん、お孫さんとの儀礼的なかかわり方の原因になっているかもしれません。
そう言えば、典子さんもそれを自覚しているふしもありました。
典子さんの寂しさ、そして彼女の完璧を求める心、でもだんだん自分でできなくなっていく現実。手助けして下さる方にも求めてしまう完璧さ・・・いろんなことが作用している典子さんの孤独をしみじみ思い返した一日でした。
cleverな典子さん。カミソリのような鋭さ。
本当にまた、能天気な私は会いに行こう、と思いました。
能天気・・・私の取り柄なのですから。