消えてしまった投稿、日記を気を取り直して書いています。この本はコロナ前に友人に借りていて、来週めでたく再会がかない、返却するので、その前にもう一度読もう、と再読したのです。
書かれているのは少し前のイギリス(EUから離脱するとかしないとかでもめている頃)で、日本人の母親とイギリス人の父親のハーフの少年が、地元のミドルアッパークラスの小学校から、元底辺校の中学に進学した、その日常が書かれている本でした。
改めて、子どもの世界は大人の世界、社会の縮図であり、その中で子どもは大人たちの思惑なんかを軽々と飛び越えて進んでいくのだな、なんて感じた本でした。社会の分断は、住む地域や通う学校の格差につながり、貧富の格差もあるし、LGBTQやレイシズムの問題も中学生の子どもだって無関係ではいられない社会なのでした。イギリスは厳然たる階級社会、そして移民を受け入れている国。主人公の少年はチンクとアジア系の人に向けられる侮蔑の対象にされる外見だけれど、生活圏やその意識は小学校時代からの延長でホワイト、いわゆる白人の中間層の意識で、・・・でも気持ちはブルーでちょっと憂鬱だ、とそんな少年の心情がタイトルになっているのでした。
学校が社会の矛盾と無関係で存在できるわけもなく、その中で思春期を過ごす少年は、現実を目の当たりにしながら、それでもたくましく、思慮深く成長していました。子どもたちの表現や社会の取り上げ方が日本とは違う面もあるけれど、本質は日本も同じだなぁ、と思わされました。
最後の少年の言葉は、僕はイエローでホワイトでちょっとグリーン、というものでした。グリーン。青、青二才の青。僕は憂鬱(ブルー)ではないよ。色で表現するならグリーン。まだまだ青二才で経験不足の成長過程の若木のグリーンだ。という少年の言葉に希望を感じました。
改めて読み直し、自分も含めて、大人、社会がいかにステレオタイプに物を考え、捉えているかを思い知らされた気がしました。理解力があるつもり、ではいたけれど、それはあくまでも「つもり」なだけで、無意識のうちに枠の中での思考になっているようです。そんなことを改めて考えさせられました。自分の子育てはもうやり直せないけれど、せめてこれからは彼らの価値観、判断、生き方を受け入れられる親でありたいものです。
とまぁ、こんなことを消えた日記には書きました。
今日はとても良い天気で暑いくらいの東京です。おじいさんはあまりの天気のよさに、昼食後、山へ行く、とトレーニングにでかけ、お婆さんは、衣替えの下準備と洗濯かな、なんて思いましたが、ヤメにして、消えた日記を書くことに致しました。