今日の礼拝は、昇天者記念礼拝でした。例年、秋のお彼岸の頃に開いています。いつもは亡くなられた方の思い出の写真やスライドを流し、またご家族の方たちをお招きして、近況を話したり、思い出話をしたりと、皆さんとお茶とお菓子をいただくのですが、今年は仮会堂で、人数も制限されるので、例年とはずいぶん違った内容でした。
説教に重点の置かれた内容で、亡くなられた方に対する考え方が、はっきり示されて、とても有意義に思いました。
牧師先生は、亡くなられた方たちの霊を供養したり、安らかな眠りを祈念したりするものでは無いのだ、と改めて説教されました。昇天した方たちは、天に帰り、神と共に、全き平安の中に居るのです。昇天者記念礼拝は、その方たちを偲び、そして私たちの喪失の悲しみ、苦しみから私たちが癒されて、また立ち直ることを祈り求める時、そして癒される時なのだ、と語られました。
聖書の説教箇所はイザヤ書でした。イザヤ書は、死海文書の中にも含まれていました。印刷機も何もない時代、紀元前140年ころのものと言われていますけれど、現在のイザヤ書と一言一句違わないものなのだそうです。それだけでも奇跡のように感じます。原本はアメリカのロックフェラービルの地下シェルターに厳重に保管しているそうで、私はイスラエルで、そのレプリカを見たのでした。
イザヤ書の頃から、愛する人や物との別れ、また様々な苦しみの中を生きる人々に対する確固とした癒しのメッセージに心が揺さぶられました。
同じころに子宮癌が見つかって、そして旅立ってしまったYさんのご主人も今日は礼拝にいらしていました。
Yさんは全き平安、何の苦しみも憂いも無い世界に帰っていきました。
やがては私も、そしてご主人も天に帰るのですけれど、それでも思い返すと寂しくなるし、涙もこぼれてしまいます。でも、今日の説教は慰めに満ちた、力強いものでした。この聖句を握りしめて、私はキリスト者として、この時期を過ごしたいと思いました。
回り道して、帰りに解体中の教会の前を通りました。塔も2階部分も既に無くなっていました。順調に進んでいるようでした。写真を何枚か撮って、今日礼拝に来れなかった方たちに送ってあげました。
喪失、失うことは、又新たな一歩につながるのです。完成までの歩みが守られますように。