この日記を書き始めたのは2021年の5月でした。約1年半が過ぎたのです。
つたない日記にコメントを下さる方もいて、嬉しいし、楽しいものだと感じています。
先日書いた息子のことについては、気にかけて下さって、暖かいコメントをいただきました。私の怪我や病気にも心を寄せて下さる方が居て、お目にかかったことはないけれど、こういう形のお友達というのがあるのだな、と思いました。
2020年からの2年間は、なかなか大変な2年間でした。私たち夫婦は3月に完全に仕事から離れて、4月から自宅の全面リフォーム工事を始めました。ちょうどそのタイミングで、三男が体調を崩したのです。
親元を離れて研究所と寮を往復する生活。当初2週間の休暇、と言われたようですが、寮の朝食をいただき、皆さんは出社するのに、自分だけ寮に留まっているのも辛かったようでした。今となっては仕方がありませんが、たとえ仮住まいでも、ホテルを用意してでも、我が家に引き取るべきではなかったか・・と思わなくもありません。息子は益々体調を崩し、2か月の休職になりました。工事が終わるまでの期間、息子用に1部屋用意して、夫が迎えに行って連れ帰ってきたのです。
自殺念慮があって、睡眠も食事もおかしくなっていた息子。私は息子の心配と家の工事で気が休まらない日々だったと思います。親もカウンセリングを受けに行きました。病院の先生にもお世話になりました。いろいろな方に助けていただいて暮らしていました。息子ももがきながらも復職プログラムに参加して、職場復帰したかに思えたものの、長くは続きませんでした。最終的に年内退職を決めて、寮を引き払ったのは10月でした。
私は真夏の暑いさなかにリフォームと並行して、どうにか息子が帰って来れるように片付けまくり、掃除をしていました。夫と一緒に息子を迎えに行ったのも思い出されます。元気で頑張るように、と送り出したけれど目の前の息子は表情も無くて、会話もできません。部屋から出した荷物を見つめるばかりでした。
そして11月。私が倒れてしまったのでした。
そのせいもあって手続きが遅れてしまい退職は2021年の1月になりました。でも、息子は自分で決断して1歩を踏み出したのだと私は思っています。
死にかけた私が助かるように、と緊急手術の間中、夫と控室で待っていてくれたそうです。私が倒れてからは、一度も死にたいなんて言わなくなった、と夫から聞きました。時間はかかっても、必ず新たな道を見つけてくれる。私も夫もそう信じて見守ろうと思うのです。
いただいた「何とかなるわよ~」という言葉に励まされます。長男は後進国の開発援助が仕事なのですが、三男に、東南アジアでもアフリカでも、機械工学のエンジニアなんだから、働く場所はいくらでもあるぞ。と言っていました。ステレオタイプにこうあるべき、こうあってほしい、と決めつけないで、息子たちの人生を見守り続けたいと思っています。
辛いこともあるけれど、君たちの親で幸せだよ・・と。そのためにもお転婆高齢者として前向きに人生を楽しみたいと願っています。
あっ、ちなみに三男に「私、お転婆高齢者ってぴったりだね」と言ったら、「どっちかっていうと夜遊び高齢者、いや不良老婆だ」なんて言って笑いました。
元気になったものです。不良お転婆高齢者、雨で今日は静かにしております。
長々と書いてしまった。読み飛ばしてください。